シク教指導者の殺害をめぐって、カナダとインドが双方の外交官を国外追放にしたことが各メディアで報道されている。G20で議長国を務めたインドが国際的に注目されている中での衝撃的な出来事である。しかし、米国主導の民主主義陣営の結束に綻びが生じるという指摘があるが、そもそもインド政府がシク教指導者を殺害したと仮定した場合、その動機に関する報道はない。そこで本稿はインドが国境紛争を抱える隣国パキスタンとの関係に対して非常に敏感になっていることを明らかにする。
まず、シク教の独立運動は1947年にインドとパキスタンが分離独立を果たしたときまで遡る。インドはヒンドゥー教徒、パキスタンはイスラム教徒が大多数を占めているが、独立時の協議にはシク教徒の代表も召集を受けていた。しかし、シク教徒は現在もインドの人口の2%に過ぎず、会議へは呼ばれたものの入室は許可されなかった。結果として、シク教徒が多く住んでいたパンジャーブ地方は東西に分割され、それぞれインドとパキスタンに帰属することとなった。歴史的にイスラム教徒と抗争してきたシク教徒たちはインド国内に居住することを選択し、分離独立の際に東西パンジャーブから多くの人々が移動した際には、暴動や殺戮などが繰り返されて現在でも地域の人々の間で悲劇として語り継がれている。
独立後のインドでは、国内の多様な民族や宗教をまとめるために言語に基づく州制度が採用された。英領時代のパンジャーブは現在のパンジャーブ州に加えて、ハリヤーナー州やヒマーチャル・プラデーシュ州も含む広大な範囲に及んでいたが、1956年と1966年の再編を受けて現在の範囲が確定している。パンジャーブ州が他の言語州と異なるのは、実質的にはシク教徒が多数派となることを意図して成立していることである。シク教徒はもともとパンジャーブ地方に多く住んでいたが、インド国内の他の地域や国外にも多数のシク教徒が居住していた。しかし、イギリスからの独立後の政治的要因によって、シク教徒の故郷としてのパンジャーブ地方という固定観念が形成された。1970年代から80年代にかけてカーリスタン運動と呼ばれる分離独立運動が盛んとなったが、それはパンジャーブ州の独立とほぼ同義であった。なお、印パ双方のパンジャーブ州を一つの国家として独立を目指すパンジャービーナショナリズムという類似の概念も存在している。
このような状況に近年大きな変化が起きたのは、パキスタンによるカルタールプル回廊の設置である。前述のようにインド独立以前のシク教徒は現在のパキスタン領内にも数多く住んでいたため、シク教の重要な寺院や聖地はパキスタン国内にも複数存在している。その一つであるカルタールプルはシク教の創始者グル・ナーナクに由来のある場所で、そこに巡礼に訪れるシク教徒に対してパキスタン政府がビザなしでの入国を2018年に認めた。当初は印パ両国のみならず、国際的にも地域と宗教の融和策として歓迎された。しかし、記念式典にはシク教徒の過激派も招待されており、パキスタン側からすれば国境を接するインド側のパンジャーブ州(シク教徒が多数派)を併合したいとする思惑も見えるのである。
つまり、インド政府にとってシク教徒の独立運動とは核を保有する敵国パキスタンに領土を割譲される危険性を孕んでいるのである。カナダという同盟国の領土内でシク教徒の指導者が殺害されたことについてインド政府の関与は現時点では明らかではないが、暗殺するだけの理由や動機はインド側には存在している。現在のインドはモディ首相のリーダーシップによって国際的には影響力を増しつつあるが、中国のチベット人弾圧やウイグル族の迫害のように、今回のシク教指導者の死亡はインドのアキレス腱となる可能性がある。
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