インド最高裁判所は2023年12月11日付けでインド政府が2019年に公布したジャンムー・カシミール州の自治権を剥奪する大統領令を支持する判断を下した。カシミール紛争の舞台として知られる同州の歴史において、今回の最高裁の決定はどうのような意味を持っているのだろうか。その問いに答えるために、本稿はインドの言語州統治の限界が表れていることを明らかにする。
まず、英領植民地時代までのカシミール地方の状況について述べておこう。カシミール地方は1752年以降はアフガン帝国が支配していたが、1812年にシク王国のマハーラージャー・ランジット・スィングによって併合された。1845年の第一次アングロ・シク戦争の結果、東インド会社に一時的に支配されたが、第二次アングロ・シク戦争後はシク王国の有力な貴族であったグラブ・スィングが統治した。英領時代はグラブ・スィングの子孫が内政、イギリス人の官吏が外交を担う藩王国として存続した。
1947年にインドとパキスタンが分離独立を果たすと、カシミール地方を統治していたマハーラージャー・ハリ・スィングは、インドとパキスタンのどちらにも属さずに独立国家を建設することを考えていた。なぜならば、域内の人口比は支配階級であったヒンドゥー教徒が20%であったのに対し、イスラム教徒は8割近くに及んでいたからである。しかし、パキスタン政府はカシミール地方を併合することを画策し、その結果としてハリ・スィングはインドに帰属することを選択することになる。このため、カシミール地方の領有権を巡ってインドとパキスタンは三度に及ぶ戦争を行い、中国も同地方の北東部を巡ってインド側と軍事衝突を繰り返すようになった。現在では同地方の55%の土地と70%の人口がインド側に属しており、30%の土地がパキスタン、15%が中国が領有している。
このような状況はインド国内におけるヒンドゥー・ナショナリズムの高まりを受け、2010年頃から新たな局面を迎えている。カシミール地方の独立運動や同地の併合を画策するパキスタン政府の思惑もあり、政治的緊張は次第に高まっていった。2019年に自治権剥奪が公表された際には、ジャンムー・カシミール州におけるインターネットの利用が制限され、住民の生活にも大きな影響を与えた。また、同規定によってカシミールは州としての地位を失い、ラダック連邦直轄領とジャンムー・カシミール連邦直轄領に分割された。従来の連邦直轄領は首都であるニューデリーや、高所得者が集まる計画都市であり、パンジャーブ州とハリヤーナー州の共通の州都であるチャンディーガルなどの重要都市に適用されてきた。しかし、地方全体を中央政府が直接統治することは先例のない措置である。
カシミール紛争はパレスチナ問題と同様に複雑な歴史的背景や宗派対立によって引き起こされており、1つの民族が1つの国家を持つという国民国家や、主要言語によって州を構成するインドの言語州の限界を露呈していると言えよう。ただし、インドの嗜好品として世界的に有名なチャイは、パキスタンではカシミール・ティーと呼ばれている。つまり、パキスタン国民にとってはカシミール地方はインドの文化的影響を感じさせる地域なのであり、本来は諸民族の共生を体現するユートピアとなり得る土地なのである。そういう視点から言えば、現在のパレスチナ問題も同様に、人類にとって正念場と言えるかもしれない。
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